「世界遺産ってなんか堅苦しい」
「世界遺産のタイトルも抽象的だし何がすごいのか良く分からない」
「解説を読んでもポイントが良く分からない」
この記事はそんな方に向けて書いています。
様々なサイトで世界遺産については説明されていますが、どのサイトも難しいです。
それは情報量が多すぎて、事前知識がないと理解しづらいからです。
この記事では、国内23の世界遺産を制覇し年間50回以上国内を旅行する筆者が、簡単に理解したいという方のために世界遺産に登録された理由をたった3行で分かりやすくシンプルに解説します。
世界遺産に登録された理由を理解すると、旅先での見方は変わります。
それは世界遺産への登録理由こそが「他の観光地とは一線を画す」理由だからです。
世界遺産の概要を理解して、ぜひ現地に足を運んでみましょう。
富岡製糸場は日本の近代化と世界の絹産業の発展に貢献した

[登録年]:2014年
[所在地]:群馬県富岡市、伊勢崎市、藤岡市、甘楽郡下仁田町
[登録区分]:文化遺産
[登録名称]:富岡製糸場と絹産業遺産群
富岡製糸場は、絹織物の材料となる生糸をつくった工場で、明治から昭和まで約115年の間稼働しました。
当時の製糸工場としては世界的に最大の規模を誇っており、日本の近代化と世界の絹産業の発展に大きく貢献したことで世界遺産に登録されています。
世界遺産は、
- 富岡製糸場
- 荒船風穴
- 田島弥平旧宅
- 高山社跡
が登録されています。
富岡製糸場が世界遺産に登録されている3つの理由

富岡製糸場が世界遺産に登録されている3つの理由を紹介します。
理由①養蚕・製糸の技術革新により良質な生糸の大量生産を可能にして世界の絹産業の発展に大きく貢献したから

明治維新による近代化と西欧諸国の製糸技術を取り入れたことにより日本の養蚕・製糸技術が向上すると、日本の生糸が世界中で高い評価を受けました。
1909年には日本は世界一の生糸輸出国になり、20世紀半ばまで日本の経済発展を支えます。

富岡製糸場は日本国内のみならず、これまで特権階級の高級衣料素材だった絹やその技術を世界に広めることで、人々の生活・文化を豊かにする役割も果たしました。
理由②西洋の先進技術を取り入れた模範工場が、日本の製糸業の基礎となったから
富岡製糸場の建設や技術には西洋の最新技術が取り入れられました。こうした取り組みは後の日本の製糸業の基礎になっています。
フランス人技術者が富岡製糸場の創立から活躍した
明治政府が製糸場の指導者として雇ったのは、当時横浜で生糸の検査人をしていたフランス人のポール・ブリュナでした。
ポールは武蔵国(埼玉)・上野国(群馬)・信濃国(長野)の地域 を調査し、最終的に以下の理由で上野国(群馬)の富岡に製糸場を建設することを決定しました。
- 江戸時代から養蚕が盛んだった
- 工場建設に必要な広い土地が用意できる
- 既存の用水を使って製糸に必要な水を確保できる
- 蒸気機関の燃料である石炭が近くで採れる
またポールは操糸器や動力となる蒸気エンジンなどフランス式の機材を輸入しました。
建物の設計もフランス人技術者によるもの
富岡製糸場の建物の設計も、フランス人技術者によるものです。
設計は横須賀製鉄所の船工兼製図技師であったフランス人のオーギュスト・バスティアンが務めました。
バスティアンの作図をもとに日本の大工が建設を進めました。

主要な建物は「木骨レンガ造」と呼ばれる西洋の建築方式で、木の骨組みに壁をレンガで固めた造りです。
一方で屋根は日本瓦で仕上げるなど日本と西洋の技術を融合させた設計でもありました。
こうしてフランスの技術を取り入れた官営の模範工場「富岡製糸場」が建設されました。
その後日本各地で製糸工場が建設され、製糸技術の近代化が一気に進むことになります。
理由③明治初期の製糸場の姿がほぼそのまま今も残っているから

富岡製糸場は約150年前の1872年に建造され、その敷地面積は東京ドーム約4個分もの広さがありました。
官営工場として建設されたものの、その後は三井財閥、横浜の生糸商・原合名会社、片倉製糸紡績株式会社(現在の片倉工業)など民間会社によって運営され、昭和62年(1987年)に115年という長い歴史に幕を閉じました。
平成17年(2005年)以降、富岡市が所有・管理をしていて、敷地内には当時の建物がそのまま残っています。
明治政府の官営工場は全国に三十数か所ありましたが、ほぼ完全な形で残っているのは富岡製糸場だけです。
19世紀後半の工場がそのまま残されているのは世界的に見ても非常に珍しいことです。
富岡製糸場の創業の目的は外国と対等な立場に立つため

江戸時代まで鎖国していた日本は、明治になっても欧米の先進諸国に比べて工業技術の水準は低いままでした。
そこで明治政府は富国強兵を国策として外国と肩を並べようとします。
富国強兵を推進するにはお金がかかるので、国内の産業を盛り立てて利益を生む政策を始めたのです。
そこでこれまで輸出の中心だった生糸を高品質かつ大量に生産し、海外に売ることで外貨の獲得を目指しました。
このように近代的産業を育て国力を増強するという目的で、富岡製糸場をはじめとした官営模範工場の建設が次々に始まりました。
操糸所は女性工員が主だった

富岡製糸場では全国から公募した士族や豪農(裕福な農家)の娘を中心に約400人の女性が働いていました。
蚕の繭から糸を取るという繊細な仕事だったので、女性が向いていました。
給料こそ高くはないものの、富岡製糸場は世界でも先進的な労働環境だったと知られています。
- 勤務時間:7時間45分
- 給料:能力給(年齢に関係なく製糸技術が優れていれば一等工女になれた)
- 日曜休み
- お盆と年末年始には10日ずつの休み
- 1日三回食事つき
- 寮の費用無料
- 病院での診療無料
富岡製糸場の構成資産
一つの世界遺産にはいくつかの建築物が登録されている場合があり、それを「構成資産」と言います。
富岡製糸場

- 明治政府が設立した官営の製糸工場
- 民間が運営するようになってからも一貫して製糸を行った
- 日本の製糸業をけん引し続けた
- 主要な施設がほぼ創業当時のまま残されている
荒船風穴(下仁田町)

- 蚕種(蚕かいこの卵)の貯蔵施設
- 蚕は年に1回しか繭をつくらないので蚕種を冷蔵保存して卵がかえる時期を増やし年間を通して繭が採取できるようにした
- 岩の隙間から冷たい風が吹き出すことを利用し天然の冷蔵庫として蚕種の卵を保管した
田島弥平旧宅(伊勢崎市)
- 近代養蚕農家の原型である
- 田島弥平は蚕の飼い方とそのための家づくりを提唱した
- 風通しを大切にした「清涼育」という飼育法を開発した
- 蚕を飼っていた2階に窓がたくさんある
高山社跡
- 高山長五郎は、飼育が難しかった蚕の飼い方の改良に取り組んだ
- 風通しを重視した「清涼育」と、火を焚いて蚕室(蚕を飼育する部屋)を暖める「温暖育」の良いところをとった「清温育」という飼育法を開発
- 「清温育」を開発した養蚕教育施設
まとめ
「富岡製糸場」の紹介はいかがだったでしょうか。
簡単でもいいので世界遺産については絶対に登録理由を知ったほうがいいです。
それは世界遺産が「他の観光地とは一線を画す」からです。
この記事が、ちょっとでも目線が変わるお役に立てれば嬉しいです。
以上、<なぜ「富岡製糸場」は世界遺産?その理由を3行で分かりやすく解説!>という話題でした。