「世界遺産ってなんか堅苦しい」
「世界遺産のタイトルも抽象的だし何がすごいのか良く分からない」
「解説を読んでもポイントが良く分からない」
この記事はそんな方に向けて書いています。
様々なサイトで世界遺産については説明されていますが、どのサイトも難しいです。
それは情報量が多すぎて、事前知識がないと理解しづらいからです。
この記事では、国内23の世界遺産を制覇し年間50回以上国内を旅行する筆者が、簡単に理解したいという方のために世界遺産に登録された理由をたった3行で分かりやすくシンプルに解説します。
世界遺産に登録された理由を理解すると、旅先での見方は変わります。
それは世界遺産への登録理由こそが「他の観光地とは一線を画す」理由だからです。
世界遺産の概要を理解して、ぜひ現地に足を運んでみましょう。
平泉は奥州藤原氏が築いた理想郷
[登録年]:2011年
[所在地]:岩手県平泉町
[登録区分]:文化遺産
[登録名称]:平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―
平安時代後期、奥州藤原氏三代が築いた平和な理想郷(仏教文化を中心)です。
百年にわたって奥州平泉(岩手県南西部)で栄えました。
平泉には、11世紀後半に東北地方で続いた戦乱で亡くなったすべての人の成仏を祈ってたくさんの寺や庭園が建てられました。
世界遺産は、
- 中尊寺
- 毛越寺
- 観自在王院跡
- 無量光院跡
- 金鶏山
の五つで構成されています。
平泉が世界遺産に登録されている3つの理由
平泉が世界遺産に登録されている3つの理由を紹介します。
今は東北の小さな町ですが、1000年前は京都に次ぐ全国2位の人口を誇る大都市でした。
平泉には京都をしのぐ大寺院の跡などが残っており、当時の繁栄を伺い知ることができます。
平泉の歴史
平安時代、平泉は金や名馬を産出する豊かな土地柄でした。
その富をめぐって常に激しい争乱が絶えず、多くの命が失われていました。
争いで父や妻子を失った藤原清衡は、平泉を「争いのない平和な土地」にすることを強く願いました。
清衡は、敵味方関係なく戦乱で亡くなったすべての人の成仏を祈ったのです。
こうして清衡が政庁(政治の仕事をする役所)を建てたことで平泉は東北支配の拠点になります。
藤原一族は京都にならって、浄土(死後に行く仏の世界)を表現する寺院を建てていきます。
最盛期には京をも凌ぐ、仏教文化を中心とする壮麗な都となりました。
しかし最後は源頼朝に圧力をかけられて、滅亡させられてしまいます。
こうして100年という短い栄華は消滅してしまったのです。
奥州を治めた藤原一族
11世紀から100年にわたり栄えた藤原一族は、奥州(現在の福島・岩手・青森あたり)を治めました。
繁栄の礎を築いた初代~三代までが奥州藤原三代と呼ばれています。
- 初代 藤原清衡・・・浄土世界の実現
- 二代 藤原基衡・・・初代の志を忠実に引き継ぎ、街を整備
- 三代 藤原秀衡・・・黄金文化の絶頂期
- 四代 藤原泰衡・・・源頼朝に滅ぼされる
寺と庭園は浄土を表している
浄土とは死後に行く仏の世界です。
そこには苦しみも争いもなく、成仏した人はいつまでも安らかに過ごせると信じられていました。
平安時代後期は、末法思想(お釈迦様が亡くなって時間が経つと、だんだんお釈迦様の教えが行き届くなり、人々は困窮するという考え)が広まっていたため、死者を極楽浄土へ導く寺が必要でした。
奥州藤原氏の浄土思想は、死後の世界ではなくこの世に浄土をつくり出そうとしたことから町全体が極楽浄土のようでした。
平泉の構成資産
一つの世界遺産にはいくつかの建築物が登録されている場合があり、それを「構成資産」と言います。
平泉は合計5の構成資産から成り立っています。
5つの構成遺産によって、藤原氏が描いた浄土が表現されています。
中尊寺(ちゅうそんじ)
毛越寺(もうつうじ)
観自在王院跡(かんじざいおういんあと)
無量光院跡(むりょうこういんあと)
金鶏山(きんけいざん)
まとめ
「平泉」の紹介はいかがだったでしょうか。
簡単でもいいので世界遺産については絶対に登録理由を知ったほうがいいです。
それは世界遺産が「他の観光地とは一線を画す」からです。
この記事が、ちょっとでも目線が変わるお役に立てれば嬉しいです。
以上、<観光の前に知りたい!なぜ「平泉」は世界遺産?その理由を3行で分かりやすく解説!>という話題でした。