「世界遺産ってなんか堅苦しい」
「世界遺産のタイトルも抽象的だし何がすごいのか良く分からない」
「解説を読んでもポイントが良く分からない」
この記事はそんな方に向けて書いています。
様々なサイトで世界遺産については説明されていますが、どのサイトも難しいです。
それは情報量が多すぎて、事前知識がないと理解しづらいからです。
この記事では、国内23の世界遺産を制覇し年間50回以上国内を旅行する筆者が、簡単に理解したいという方のために世界遺産に登録された理由をたった3行で分かりやすくシンプルに解説します。
世界遺産に登録された理由を理解すると、旅先での見方は変わります。
それは世界遺産への登録理由こそが「他の観光地とは一線を画す」理由だからです。
世界遺産の概要を理解して、ぜひ現地に足を運んでみましょう。
「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」はキリスト教をひそかに信仰しつづけた人々の文化と歴史が残る

[登録年]:2018年
[所在地]:長崎県、熊本県
[登録区分]:文化遺産
[登録名称]:長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産
長崎県と熊本県には、2世紀という長い間禁止されていたキリスト教をひそかに信仰しつづけた人々の文化が残っています。
潜伏キリシタンと呼ばれる彼らは、自分たちの信じるキリスト教を日本独自のかたちに発展させてきました。
「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」は、潜伏キリシタンが日本最西端の地でどのようにキリスト教を信仰し、地域と繋がっていたのかを知ることができる遺産です。
構成資産は、潜伏キリシタンの歴史を語る12資産で構成されています。
《世界遺産登録》
- キリシタンが最初に潜伏した場所
- 原城跡
- 潜伏キリシタンがひそかに信仰を続けた集落
- 平戸の聖地と集落(春日集落と安満岳)
- 平戸の聖地と集落(中江ノ島)
- 天草の﨑津集落
- 外海の出津集落
- 外海の大野集落
- 潜伏キリシタンが共同体を維持した集落
- 黒島の集落
- 野崎島の集落跡
- 頭ヶ島の集落
- 久賀島の集落
- 神父と潜伏キリシタンの出会い、そして潜伏時代の終焉
- 奈留島の江上集落(江上天主堂とその周辺)
- 大浦天主堂
「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が世界遺産に登録されている3つの理由

「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の文化財が世界遺産に登録されている3つの理由を紹介します。
江戸時代の禁教期も潜伏キリシタンは長崎で信仰をつづけた

室町時代末期の1549年にキリスト教が日本に伝わると瞬く間に教徒を増やしましたが、1613年~14年ごろまでキリスト教が禁止されてしまったため多くの信者が仏教徒になりました。
しかし一部のキリスト教徒は長崎に潜伏して信仰を守り続けました。
長崎に潜伏した理由は、
- 貿易港があったため外国人宣教師が移り住んだ
- 江戸から遠く監視の目が行き届きにくかった
からです。
教会の位置を見ると、沿岸部や離島に多いことがわかります。
これは潜伏キリシタンが迫害から逃れるため町から離れた場所に住み、明治時代にキリスト教の禁教令が解かれたのち、子孫がその周辺に教会を建てるようになったからです。
教会はキリスト教のシンボルであり、キリスト教徒の心の拠り所なのです。
日本のキリスト教徒の長く苦難の歴史
日本のキリスト教徒が歩んだ歴史は長く苦難のものでした。
大きく3つの時期があります。
キリスト教の伝来と普及

キリスト教は室町時代末期1549年にスペインの宣教師フランシスコ・ザビエルによって伝来しました。
信者は数十万人にのぼり、幕府もその力を恐れるほどでした。
1613年~14年ごろ、キリスト教の一大勢力を恐れた徳川家康は「キリスト教禁止令」を発令します。
16歳の少年・天草四郎を筆頭に島原・天草一揆を起こすも鎮圧され、キリスト教は勢力を失うこととなったのです。
キリスト教が禁止されている中での信仰と継承

キリスト教が禁止されてもなお、表面上は仏教徒のふりをしてキリスト教を信仰しつづける人々がいました。
こうした人々を潜伏キリシタンといいます。
潜伏キリシタンが信仰するキリスト教は長い年月をかけて、仏教や神道、祖先信仰や自然信仰など日本の宗教と融合し、日本独自のものへと発展を遂げました。
こうした歴史をもつキリスト教徒は世界中でも長崎周辺にしか存在しません。
キリスト教解禁後の復帰

日米修好通商条約が結ばれた1858年に日本が鎖国を終えると、特定の地域に限り外国人の居住と教会の建設が認められます。
1859年には長崎港が開港され、大浦天主堂建設のためプティジャン神父が来日しました。
そして大浦天主堂建設から1か月後、宗教史に残る大きな出来事が起こります。
1865年3月17日にプティジャン神父の前に潜伏キリシタンである一人の女性が現れ、キリスト教徒であることを告白したのです。
この女性は殺される覚悟を持って告白を決意したといいます。
日本にキリスト教徒はいないと信じていたプティジャン神父は大変驚きました。
この信徒発見という出来事は「宗教史上の奇跡」と呼ばれています。
「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産
一つの世界遺産にはいくつかの建築物が登録されている場合があり、それを「構成資産」と言います。
「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」は合計12の構成資産から成り立っています。
キリシタンが最初に潜伏した場所
原城跡

キリシタンが迫害を受けひそかに信仰することを余儀なくされたことがきっかけで起きた島原・天草一揆の際に立てこもった場所です。
ここから潜伏キリシタンの歴史が始まりました。
潜伏キリシタンがひそかに信仰を続けた集落
平戸の聖地と集落(春日集落と安満岳)

平戸島は江戸時代にとくに厳しくキリスト教が弾圧された地域です。
人々は教会を建てることなく山や島を聖なる場所と崇め信仰を守り続けました。
春日集落には神仏の信仰対象である石碑や石祠、安満岳があります。
平戸の聖地と集落(中江ノ島)
平戸島は江戸時代にとくに厳しくキリスト教が弾圧された地域です。
人々は教会を建てることなく山や島を聖なる場所と崇め信仰を守り続けました。
中江ノ島はキリシタンの殉教地であり、聖地でもある無人島です。
天草の﨑津集落

島原・天草一揆のあとに信者が移り住んだ漁村です。
外海の出津集落
キリスト教由来の聖画像を拝むことで信仰を続けた集落です。
出津集落にある出津教会堂は、レンガ造りで表面は漆喰で仕上げられています。
外海の大野集落
神社にひそかにまつった自らの信仰対象を拝むことで信仰を続けた集落です。
大野集落にある大野教会堂は、石を積んだ外壁(設計した神父ド・ロからドロ壁と呼ばれる)が特徴的です。
潜伏キリシタンが共同体を維持した集落
黒島の集落
平戸藩の牧場跡の再開発地に移住することで共同体を維持した集落で、現在も黒島の住民のほとんどがカトリックです。
黒島の集落にある黒島天主堂は、彼らのシンボルです。
野崎島の集落跡
神道の聖地であった島に移住することで共同体を維持した集落です。
現在は無人島で、レンガ造りの教会が残されています。
頭ヶ島の集落
病人の療養地として使われていた島に移住することで共同体を維持した集落です。
長崎県に現存する唯一の石造教会・頭ヶ島天主堂があります。
久賀島の集落
五島藩の政策に従って島の未開発地に移住することで共同体を維持した集落です。
1881年に建てられた長崎県の中でもきわめて古い教会・旧五輪教会堂があります。
民家のような外観が特徴で、潜伏時代の素朴な姿を今に伝えています。
神父と潜伏キリシタンの出会い、そして潜伏時代の終焉
奈留島の江上集落(江上天主堂とその周辺)
禁教期に移住によって集落が形成され、解禁後に潜伏が終わったことを可視的に示す教会堂です。
江上天主堂は木造教会の傑作のひとつと言われています。
床が高床式になっている珍しい教会です。
大浦天主堂

潜伏が終わるきっかけとなる「信徒発見」の場所です。
ステンドグラスの美しさでも知られ、日本最古のキリスト教建築でもある大浦天主堂は1864年に建てられ、187年と1879年に増築されました。
ヨーロッパのゴシック様式で建てられていますが、実際の建設は日本の大工が行ったため、日本とヨーロッパの技術が融合しています。
まとめ
「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の紹介はいかがだったでしょうか。
簡単でもいいので世界遺産については絶対に登録理由を知ったほうがいいです。
それは世界遺産が「他の観光地とは一線を画す」からです。
この記事が、ちょっとでも目線が変わるお役に立てれば嬉しいです。
以上、<なぜ「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」は世界遺産?その理由を3行で分かりやすく解説!>という話題でした。