「世界遺産ってなんか堅苦しい」
「世界遺産のタイトルも抽象的だし何がすごいのか良く分からない」
「解説を読んでもポイントが良く分からない」
この記事はそんな方に向けて書いています。
様々なサイトで世界遺産については説明されていますが、どのサイトも難しいです。
それは情報量が多すぎて、事前知識がないと理解しづらいからです。
この記事では、国内23の世界遺産を制覇し年間50回以上国内を旅行する筆者が、簡単に理解したいという方のために世界遺産に登録された理由をたった3行で分かりやすくシンプルに解説します。
世界遺産に登録された理由を理解すると、旅先での見方は変わります。
それは世界遺産への登録理由こそが「他の観光地とは一線を画す」理由だからです。
世界遺産の概要を理解して、ぜひ現地に足を運んでみましょう。
石見銀山の銀は日本の経済を支え世界に交流をもたらした
[登録年]:2007年
[所在地]:島根県大田市
[登録区分]:文化遺産
[登録名称]:石見銀山遺跡とその文化的景観
石見銀山は16~17世紀の約100年間にわたって大量に銀を産出し、日本の経済を支えるとともに世界に交流をもたらした歴史が残る世界遺産です。
島根県のほぼ中央に位置し、東京ディズニーランド約11個分ほどの広大な地域です。
普通の鉱山では銀の精錬に欠かせない木材を確保するために森林を伐採してそのままにしますが、石見銀山では伐採と同時に植林して自然を再生させてきました。
世界遺産登録においては、このように自然と一体となって栄えた鉱山の歴史も高く評価されています。
おかげで当時から銀山の周りは豊かな森林に囲まれていて、現代にも受け継がれています。
構成資産は、鉱山の元で栄えた鉱山町や銀を運んだ街道、銀を積みだした港など計14資産が登録されています。
《世界遺産の構成資産》
- 銀鉱山跡と鉱山町
- 銀山柵内
- 代官所跡
- 矢滝城跡
- 矢筈城跡
- 石見城跡
- 大森銀山
- 宮ノ前地区
- 熊谷家住宅
- 羅漢寺五百羅漢
- 鉱山と港をつなぐ街道
- 鞆ケ浦道
- 温泉津沖泊道
- 港と港町
- 鞆ケ浦
- 沖泊
- 温泉津
石見銀山が世界遺産に登録されている3つの理由
石見銀山が世界遺産に登録されている3つの理由を紹介します。
石見銀山は世界有数の大銀山だった
銀山に関わる人が暮らした鉱山町
島根県大田市大森町にある人口400人程度の小さな町にかつて20万人ものひとが暮らしていた鉱山町がありました。
その鉱山は古い時代の地名・石見国から石見銀山と呼ばれていました。
大森町は銀山経営の町として発展しましたが、江戸時代の1800年に起きた火災で焼失してしまいました。
その後に建てられた瓦屋根の古い町並みが今も残っています。
石見銀山は戦国時代の16世紀から約400年(最盛期は16~17世紀の約100年間ほど)にわたって銀を産出し、ヨーロッパの国々にもその名を知られる世界有数の大銀山でした。
室町時代から本格的な採掘が始まる
鎌倉時代末期(1309年)に石見銀山で銀が取れることが発見され、室町時代(1526年)に博多の商人・神谷寿禎が航海の途中に光を放つ山(仙ノ山)を見つけました。
それ以降、本格的に銀が採掘されるようになりました。
当時は採掘された銀の鉱石は、不純物を取り除かずに博多や朝鮮へ輸送されました。
日本を銀の国に変えた新技術・灰吹法
日本を銀の国に変えたのは、1533年に中国から朝鮮半島を経て伝わった灰吹法と呼ばれる新技術です。
灰吹法で銀の生産量が飛躍的に増大し、日本は世界有数の銀山大国となりました。
石見銀山の坑内では過酷な労働環境が強いられた
強制労働など悲惨な労働制約ではありませんでしたが、低い姿勢や悪い空気の中での作業など石見銀山の坑内では過酷な労働環境が強いられました。
そのため若くして病気にかかり亡くなる人もいたことから、30歳になると長寿のお祝いをしました。
地中には張り巡らされたトンネルがたくさんある
間歩と呼ばれる銀鉱石を採掘するために掘られたトンネルが約600か所も残っています。
銀鉱石のある鉱脈を掘り進んでいったため、トンネルはアリの巣のように地中に広がっています。
銀と物資を運んだ銀山街道も残されている
銀を運ぶために整備された銀山街道が今も残されています。
銀山街道は2つのルートがあり、銀鉱山と鉱山町・港を結びました。
- 鞆ケ浦街道:石見銀山と鞆ケ浦を結ぶ約7.5kmの街道
- 温泉津沖泊道:石見銀山と温泉津・沖泊を結ぶ約12kmの街道
石見銀山の銀は世界中に流通した
石見銀山で採掘された銀は、戦国時代から江戸時代にかけて銀貨として国内の経済を支えました。
また海外にも輸出されて世界の経済にも大きな影響を与えました。
最盛期の産出量は世界の約3分の1
最盛期の銀の産出量は年間38トンにおよび、世界の約3分の1を産出しました。
膨大な産出量から16世紀にヨーロッパで製作された地図に「銀鉱山」と書かれるほど広く知られたほどでした。
またキリスト教を日本に伝えたフランシスコ・ザビエルはポルトガルに向けた手紙の中で、日本のことを「銀の島」と記しています。
石見銀山の銀が世界に流通したのは大航海時代だったから
石見銀山が開発された16世紀、世界は大航海時代でした。
この流れに乗って日本の銀は中国・東南アジア・ヨーロッパなど海外に大量に輸出されました。
こうして石見銀山で産出した銀は世界に流通して商業や文化の東西交流をもたらすとともに、アジアの海を世界経済の中心地にしたのです。
石見銀山の銀が東洋と西洋の結び付きを強めたおかげで、その後日本に鉄砲が伝来したりキリスト教が伝播したりしました。
石見銀山は戦国大名による取り合いが絶えなかった
石見銀山はかつて戦国大名による争奪戦が繰り広げられました。
戦には多額の軍資金がかかるため、資金調達が勝敗を左右すると言っても過言ではありません。
そこで銀が大量に産出する石見銀山は、喉から手が出るほど欲しい場所だったのです。
1562年には毛利元就が銀山を支配し、関ヶ原の戦いまで領有しました。
1年間の収益は33,000貫とされ、現在の価値にすると3億5000万〜30億円くらいだったようです。
(※銀の価値を正確に現在の価値に換算することは難しいため詳細は不明)
それを武器弾薬に充てていたのですから、毛利元就が織田信長に対抗できたのも石見銀山のおかげと言えるでしょう。
江戸時代には徳川家康が幕府の支配下におき、江戸幕府の財政を支えました。
石見銀山は厳島神社と深いつながりがある
あまり知られていませんが、石見銀山は厳島神社と深いつながりがあります。
厳島神社は平清盛が建てたましたが、鎌倉時代に火災で焼失しています。
それを戦国時代に立て直したのが、厳島神社を深く信仰する毛利元就でした。
その時の遷宮(神様の引越し)の費用が石見銀山の費用で賄われたのです。
また毛利元就の側近にあたる平佐就之が、銀で作った狛犬を厳島神社に奉納しています。
まとめ
「法隆寺」の紹介はいかがだったでしょうか。
簡単でもいいので世界遺産については絶対に登録理由を知ったほうがいいです。
それは世界遺産が「他の観光地とは一線を画す」からです。
この記事が、ちょっとでも目線が変わるお役に立てれば嬉しいです。
以上、<なぜ「石見銀山」は世界遺産?その理由を3行で分かりやすく解説!>という話題でした。